自分が怪我をしたとき、彼女はとても心配してくれた。それが、瑛介にとっては甘くて優しい喜びだった。こんな怪我くらい、彼女が心配してくれるならむしろ嬉しい。報われた気さえする。しかし同じように、彼女は他の人のことも気にかけている。しかもその相手は、彼女を国外に連れ出した張本人だ。もし彼が昔の友情を少しでも考慮していなければ、弘次などとっくにこの世にいなかったかもしれない。「瑛介さん、いっそ......徹底的に手を打ちましょうか?そうでもしないと、霧島さんはこの先ずっと、弘次のことを引きずるかもしれません」「徹底的に?何を?」瑛介の目が細くなり、不機嫌そうに言った。「あいつは今はただの怪我人だ。それだけであんなに心配するくらいなんだ。もし本当に徹底的にやったら、彼女の目に僕はどう映る?それに、子供もいるし」その言葉を聞いて、健司はすぐに自分の言い方が誤解されたと気づき、慌てて言い直した。「誤解をされています。徹底的にというのは、霧島さんがもう二度と弘次と関わらないようにするって意味です。彼女の耳に、弘次の名前が入ってこないようにするという話です、決して......」こいつはほんとに......視線をそらし、瑛介は少し苛立ったように言った。「……いいからさ、まず教えてくれよ。なんであいつの治療なんか必要なんだ?そもそも、何の病気なんだよ、あいつ」「ええと......正確なことは分かりませんが、霧島さんの話ぶりからすると、精神的な問題があるのかもしれません」「精神的な?」瑛介は細めた目で考え込んだ。学生時代の弘次は、そんな風には見えなかった。どちらかといえば、普通に穏やかで、精神面に異常を感じさせるような様子はなかった。もし何かが狂い始めたとしたら、彼が海外に行ってからだろう。海外に渡った彼は、瑛介と音信不通になった。その期間、何が彼の身に起きていたのか、誰も知らない。そして今、弥生が彼は精神的な病を抱えていると言っている。それが本当なら、一体あの間に何が起きたのか?昔の友人として、そしてこの五年間、弥生を支えてくれたことを思えば、瑛介には嫉妬以外の感情を抱けないのが、正直なところだった。「誰かに頼んで調べさせろ。実際に何があったのか、明らかにしてほしい」彼は本気だった。どんな病が、弘次をそこまで
でも......弥生には、弘次を傷つけたいという気持ちは本当に一度もなかった。でも彼女にとって、弘次は大変な時を一緒に過ごした、特別な友人のひとりだった。弥生はそれ以上は何も訊かなかったが、健司は人の心を読むことに長けた男だ。弥生が言いかけてやめたことも、当然見逃すはずがない。彼はため息をつきながら言った。「霧島さん、まさか本気で黒田さんのことを心配してるんじゃないでしょうね?」「正直言って、そんなに気にする必要はないと思いますよ。彼が以前どれだけあなたに優しかったとしても、最近やってることは、まともじゃない。了承もなく勝手に国外に連れ出すなんて......立派な誘拐ですよ。尾崎さんが『通報はやめてくれ』ってずっと言ってたから我慢してましたけど、普通なら警察沙汰ですよ。いくらなんでも、捕まってもおかしくないです」その言葉を聞いて、弥生は思わず眉をひそめた。「彼はまだ迷ってるだけよ。きっと考えが整理できたら、きっと彼の人生もやり直せる」弥生にとって、弘次は過去に自分を支えてくれた恩人でもある。そして彼自身の人生も、常に暗闇の中にあった。心の問題をずっと抱えていたのだろう。今という時期は、きっと彼にとってもすごく苦しいはずだ。だからこそ、こんなときに彼を責めたり、突き放したりするなんて、弥生にはとてもできなかった。彼が立ち直ってくれさえすれば、新しい人生を始められるはずだ。けれど、もし逮捕されてしまえば......彼の未来はもう閉ざされてしまう。「考えが整理できたら、ですって?」健司は、まるでその言葉がおかしいとでも言いたげに、皮肉っぽく笑った。「霧島さん、もし彼に理性があるのだとしたら、あんなことはしていませんよ。はっきり申し上げますが、あの方は心に病を抱えていらっしゃいます。きちんと治療を受けない限り、一生変わることはないでしょう」治療......弥生はふと、弘次には本当に心療内科が必要だと思った。彼は医師の手を借りるべきだ。もし本人にその意思さえあれば......そう思った瞬間、弥生の目に希望の光が宿った。「もしかして......たとえばこういうのって......」「無理です」彼女が言い終わる前に、健司はきっぱり遮った。「考えないでください霧島さん。黒田さんどうせ今ごろベッドで寝込んで
「もう手配を進めさせているよ。」と瑛介は言った。手配しているとは言うものの、具体的な進捗について何も聞かされていないということは、恐らく何かしらの問題が起きているのだろう。それもそうだ。彼は弘次と一戦交え、自分を救い出してくれたものの、パスポートなどはまだ弘次の手元にある。証明書がなければ、帰国手続きは相当面倒なことになる。つまり、この数日間は帰国のことなど考えないほうがよさそうだった。でも、別荘にずっと閉じこもっているのも退屈で仕方がない。朝食を済ませた後、すぐに医者が瑛介の包帯を替えに来た。彼の傷は重かったため、医者は自ら様子を確認しながら処置を進め、薬の注意事項なども丁寧に伝えた。その後はひなのの足の怪我も診てもらった。すべてが終わった後、健司が医者を送り出し、子供たち二人もそれぞれの部屋へ連れて行った。弥生だけがリビングに残り、瑛介が薬を飲む様子をじっと見守っていた。あの苦い薬が、まるでお菓子のように一粒ずつ彼の口に運ばれていく。眉をひそめながらも、弥生の視線があるせいで、瑛介は黙って無理に飲み込んだ。苦いが、どこか甘い感じがした。彼が薬を飲み終えたのを確認して、弥生は心の中で「今日の任務の三分の一が終わった」と思った。でも、心のどこかには、まだ拭いきれない別の不安が渦巻いていた。その不安を口に出すには、相手が瑛介であるがゆえに、弥生はためらいを感じていた。その様子を察した瑛介は、そっと尋ねた。「......何か言いたいことがあるのか?」その声に、弥生はしばらく彼を見つめたあと、結局その言葉を胸にしまいこんだ。かすかに首を横に振り、「ううん、何でもない」瑛介はそれ以上は何も言わず、ただ彼女を見守った。本当は彼女が何か話したいことを抱えているのを感じていた。でも今は、彼女自身が話す気になるのを待つしかなかった。一日中この場所にいて、昼食後、弥生は階下へ散歩に出た。ちょうど外出していた健司が戻ってくるところで、彼を見た瞬間、弥生は瑛介に聞けなかったことを思い出し、足早に彼のもとへ駆け寄った。「健司!」急ぎ足でやって来た弥生の姿に、健司はすぐに何か用件があると察して足を止めた。「霧島さん、何かご用ですか?」「ええ、ちょっと聞きたいことがあって......」そう言って
弥生はしばらく黙ったあと、こう言った。「じゃあ、私ちょっと顔を洗ってくるわ。君の傷は大丈夫?」「もうだいぶ良くなったよ。昨夜薬塗って、薬も飲んだし」その言葉に、弥生は瑛介をちらりと見た。確かに、彼の顔色は昨夜よりずっとよくなっていた。薬が効いたようで、弥生は少し安心し、洗面所へと向かった。彼女が立ち上がると、ふたりの子どもたちもすぐに後をついていった。瑛介の視線から離れたところで、ひなのが小声で尋ねた。「ママ、どうして同意しないの?」きっとそう訊かれるだろうと思っていた弥生は、軽くため息をついた。「まだその時じゃないのよ」「その時って?」「ひなの」陽平が妹の言葉を遮り、やさしく言った。「もうやめとこう。ママがいいって思ったら、そのとき教えてくれるから」兄の言葉に、ひなのは素直にうなずいた。「......うん、わかった」三人は一緒に洗面所に入った。弥生は中に入ってすぐ、子ども用の歯ブラシがきちんと用意されているのに気づいた。ブルーとピンク、それに子ども向けのカップも添えられている。一目見ただけで、弥生の心はほっと癒された。子ども用品というのは、想像以上に可愛らしいものだ。これらがあらかじめ用意されていたのか、それとも昨夜のうちに届けられたのかは分からないが......弥生はふたりの歯ブラシに歯磨き粉をつけてやった。「さあ、早く磨いて。磨き終わったら朝ごはんよ」「ありがとう、ママ!」そのとき、瑛介がやって来た。ちょうど彼の目に映ったのは、三人が並んでしゃがみながら歯を磨いている、なんとも微笑ましい光景だった。その瞬間、瑛介は思わず足を止め、しばらくその場で見つめ続けた。そして、気がつけばスマホを取り出し、カメラを起動して、その場面を撮っていた。逆光の中で撮られたその写真は、まるで壁紙にぴったりな一枚だった。瑛介はそのまま写真を壁紙に設定し、ついでにロック画面にも使った。そのあともスマホを開いたり閉じたりしては、写真を何度も眺めていた。彼がそんなふうにしているうちに、弥生と子どもたちは歯磨きを終え、立ち上がった。振り返ると、彼がその場でスマホを見つめており、顔にはどこかうっとりとしたような表情が浮かんでいた。弥生はしばらく呆然とした。次の瞬間、彼のスマホの画
かすかな物音を耳にしたとき、弥生のまつげがぴくりと動いた。眩しい光に目を開けるのが難しかったが、しばらくするとようやく慣れ、そっと目を開けた。目を開けると、少し離れた場所に陽平とひなのが立っているのが見えた。その姿を見た瞬間、弥生は自分の目を疑い、一瞬ぎょっとして、思わず上体を起こした。彼女が起き上がると、ふたりの子どもたちはすぐに駆け寄り、元気よく声をかけた。「ママ!起きたんだ!」ひなのの声が思いのほか大きく、まだ眠っていた瑛介も目を覚ましてしまった。瑛介が目を開けたのを見て、ひなのはさらに嬉しそうに声を上げた。「寂しい夜おじさん!」そう言って、嬉しそうに駆け寄り、彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「寂しい夜おじさん、ママと一緒に寝てたよね?じゃあ、これからはひなののパパになるってこと?」ママと弘次が一緒に寝ているところなど、彼女は一度も見たことがなかった。一緒に寝るどころか、二人が親しげにしている様子すら見たことがないのだ。子どもだからといって、物事が見えないわけではない。むしろ、大人よりずっと鋭いときもある。瑛介はまさかそんなことを聞かれるとは思ってもおらず、一瞬ぽかんとしてしまった。しばらくしてようやく返事をした。「パパになるか......」彼は中に座っている弥生を一瞥し、ひなのの小さな頭に優しく手を置いた。「パパになれるかどうかは、ママの気持ち次第かな」「ママ?」ひなのは弥生の方を向いた。「うん」瑛介はうなずいた。「ママが僕をパパにしていいって言ってくれたら、僕は君たちのパパになるよ。でももしダメって言ったら、もっと頑張らないとね。ママに認めてもらえるように」それを聞いて、ひなのはすぐにソファによじ登り、弥生の膝の上に乗った。「じゃあママ、おじさんのこと受け入れたの?」弥生が答える前に、ひなのは自分で続けた。「きっと受け入れてるよね?だって一緒に寝たんだもん」もう完全に勘違いしてる。弥生は気まずそうに額に手を当てた。確かに心の中では徐々に瑛介を受け入れ始めていたのは事実だった。でも子どもたちの前でそれをはっきり口にするのは、まだ少し戸惑いがあった。なにしろ、あの頃の傷は今も癒えてはいない。......とはいえ、当時のことには彼女自身の誤解も混じっていた。で
彼女は不満げに言い返した。「やだよ。もし君が本当に不自由になったら、私、もう要らないから」「本当に?」「本当に」「そうか......僕、全力で不自由にならないように頑張るよ」「わかったならいいの」五年あまりの歳月が過ぎて、こうして何の意味もないくだらない話をしながら、静かに並んで眠ることなど、ほとんどなかった。だけど、そのくだらない話の中に、弥生は不思議なほどの穏やかさを感じていた。彼の完璧な顎のラインが目の前にあり、吐息がすぐ近くで感じられた。そこにあるのは彼の匂い、服を着替えた後で、血の匂いもなくなり、慣れ親しんだ安心できる香りだけが残っていた。そんなことを考えているうちに、弥生の行き場のなかった手が自然と彼の体に回り、そっと彼の胸元に身を預け、目を閉じた。「眠くなってきた......」彼女は小さな声で言った。「じゃあ、寝よう」「うん。もし具合悪くなったら、呼んでね」「わかった」ほどなくして、瑛介は胸に感じる呼吸が穏やかで規則的になっているのに気づいた。彼女は眠ったのだ。瑛介はそっと彼女に掛け布団を直してやり、彼女を起こさないように細心の注意を払って、痛む傷を無理に動かしながらも静かに整えた。その痛みは確かに厄介なものだったはずなのに、今、弥生が自分の腕の中にいる。それだけで、この傷さえ、まるでご褒美のように思えてしまうのだった。そう思った瞬間、瑛介の唇の端には自然と穏やかな笑みが浮かんだ。......もし今この気持ちを健司に知られたら、きっと軽蔑の目で見られながら、また何か言われるだろう。翌朝。陽平は目を覚ましたとき、ひなのがあらぬ方向に寝返りを打って寝ているのを見て、そっと布団を掛け直した。昨日はいろいろあって疲れたはずだから、少しでもゆっくり寝かせてあげたいと思ったのだ。だが、彼が布団を直した瞬間、ひなのは目を覚まし、眠そうな目で彼を見た。「お兄ちゃん......」陽平は彼女が起きたのを見て、そっと彼女を支えた。ひなのはまだ半分眠っているようで、ぼんやりと目をこすりながら座り込んだ。「お兄ちゃん、どうしてこんなに早起きなの?」そう言いながら辺りを見回し、弥生の姿がないことに気づいた。「ママは?」陽平も起きたときに弥生が一緒に寝ていなかったのに気